M&Aで社員を守るための法的整理と実務対応
M&Aで従業員の雇用はどうなる|株式譲渡・事業譲渡・会社分割スキーム別の解雇/転籍/退職実務【2026年版】
M&Aで従業員の雇用がどうなるかをスキーム別(株式譲渡・事業譲渡・会社分割)に整理。解雇の可否、転籍拒否の扱い、退職時の対応、雇用契約の承継ルールを民法625条・労働契約承継法に基づいて解説。リテンションボーナス相場表も掲載しました。
会社の売却や事業の切り離しが決まったとき、経営者が最も気にするのは「従業員の雇用がどうなるか」ではないでしょうか。事業譲渡では株式譲渡と異なり、雇用契約が自動的に引き継がれません。従業員一人ひとりの同意を取り付ける必要があり、拒否された場合の対応も事前に考えておかなければなりません。
本記事では、事業譲渡・株式譲渡・会社分割それぞれのスキームで従業員の雇用がどう扱われるかを、民法や労働契約承継法の条文に基づいて整理します。転籍を拒否された場合の実務対応、解雇の可否、そしてキーパーソンの離職を防ぐリテンションボーナスの設計まで、中小企業M&Aの従業員対応を網羅的にまとめました。
スキーム別の従業員影響——3スキーム比較表
最初に全体像を俯瞰します。M&Aの主要3スキームで従業員の雇用がどう扱われるかを一覧化したものです。
| 項目 | 株式譲渡 | 事業譲渡 | 会社分割 |
|---|---|---|---|
| 雇用契約の承継 | 自動承継(会社の所有者が変わるだけ) | 個別同意が必要(民法第625条) | 原則自動承継(労働契約承継法) |
| 解雇の可否 | 原則不可(経営理由のみ整理解雇可) | 譲渡を理由とした解雇は無効 | 分割を理由とした解雇は無効 |
| 転籍拒否権 | なし(会社自体は継続) | あり(同意しなければ譲渡先に移籍しない) | 一定の異議申立て権あり |
| 退職金の取扱い | 既存制度継続が通常 | 譲渡時清算 or 通算合意のいずれか | 既存制度を承継会社が引き継ぐ |
| 労働組合との協議 | 努力義務 | 努力義務 | 法定協議義務(5条協議) |
| 主な根拠法 | 会社法 | 民法第625条 | 労働契約承継法(5条・7条) |
スキーム選択は税務・財務面だけでなく、従業員への影響でも判断軸が変わります。「株式譲渡=従業員に優しい」「事業譲渡=同意取得の手間が大きい」が大枠の理解です。
M&Aで社員はどうなるか――スキーム別の雇用ルール
M&Aのスキームによって、従業員の雇用契約の取り扱いは根本的に異なります。どのスキームを選ぶかで、従業員への説明の仕方も必要な手続きも変わるため、まず全体像を把握しておくことが重要です。
株式譲渡の場合
株式譲渡では、会社の株主が変わるだけで法人格はそのまま存続します。従業員と会社の間の雇用契約に変更はなく、給与・勤務時間・休日・福利厚生も原則として維持されます。
法律上、従業員の個別同意は必要ありません。ただし、経営者が替わるという事実は従業員にとって大きな不安材料です。「自分たちの処遇は本当に変わらないのか」という疑問に対して、丁寧な説明を行うことが離職防止につながります。
事業譲渡の場合
事業譲渡は、会社の事業の全部または一部を他の会社に売却するスキームです。会社法では、事業譲渡について株主総会の特別決議が必要とされています(会社法第467条)。
事業譲渡では雇用契約が自動的に承継されません。民法第625条第1項の規定により、使用者は労働者の承諾を得なければその権利を第三者に譲り渡すことができないとされています。つまり、従業員一人ひとりから個別に同意を得て、買い手企業と新たに雇用契約を締結する手続きが必要です。
この「個別同意」が事業譲渡における従業員対応の最大のポイントです。数十人規模の中小企業であっても、全対象従業員との面談・説明・同意取得は相当な工数がかかります。クロージングの1〜2ヶ月前から準備を始めるのが現実的です。
会社分割の場合
会社分割では、労働契約承継法(正式名称: 会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律)が適用されます。
承継される事業に「主として従事する」労働者の雇用契約は、原則として分割先に自動的に承継されます。事業譲渡と異なり、個別の同意は法律上不要です。ただし、分割の効力発生日の2週間前までに対象従業員へ書面で通知し、事前に十分な協議(いわゆる「5条協議」)を行う義務があります。
5条協議が形式的なものにとどまると、承継の効力自体を争われるリスクが生じます。法務担当者や社会保険労務士と連携して、実質的な協議の場を設けることが不可欠です。
事業譲渡と従業員の解雇――法的な可否と実務
「事業譲渡で従業員は解雇されるのか」という疑問は、従業員側・経営者側の双方が抱く切実なテーマです。
事業譲渡を理由にした解雇は認められるか
結論として、事業譲渡そのものを理由とする解雇は原則として認められません。労働契約法第16条は、解雇が客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当と認められない場合は権利濫用として無効になると定めています。
「事業を売却するから人が余る」という理屈だけでは、解雇の合理性は認められにくいのが実情です。買い手企業への転籍提案、配置転換、退職勧奨など、解雇回避のための手段を尽くすことが求められます。
整理解雇の4要件
譲渡対象事業の廃止に伴い、売り手企業で従業員を維持できなくなった場合は、整理解雇の法理に基づく人員整理が検討されることがあります。判例上、整理解雇が有効と認められるには以下の4つの要件が必要です。
人員削減の必要性
経営上、人員を削減する客観的な必要性があること
解雇回避努力
配置転換・出向・希望退職募集など、解雇を回避するための努力を十分に行ったこと
人選の合理性
対象者の選定基準が合理的であり、適用が公平であること
手続きの妥当性
労働組合や従業員に対して十分な説明・協議を行ったこと
中小企業の事業譲渡では、特に「解雇回避努力」が重要視されます。買い手企業への転籍を提示したか、売り手企業内での配置転換は検討したか、希望退職を募集したか――これらを記録として残しておくことが、後日の紛争リスクを大幅に減らします。整理解雇の要件充足から転籍同意書の作成まで、具体的な手続きフローは事業譲渡の従業員解雇・転籍手続きで解説しています。
従業員が転籍を拒否した場合の対応
事業譲渡の実務で避けて通れないのが、従業員による転籍拒否の問題です。
拒否する権利と法的根拠
民法第625条第1項により、雇用契約上の使用者の地位を第三者に譲渡するには労働者の承諾が必要です。したがって、従業員は転籍を拒否する法的な権利を持っています。
転籍に同意しない従業員は、原則として売り手企業にそのまま残ります。買い手企業が「全員の転籍」を条件として求めているケースでは、拒否者が出ることで交渉全体に影響が及ぶこともあるため、事前の見通しが重要です。
拒否者への実務上の対応
転籍を拒否した従業員への対応は、売り手企業の状況によって変わります。
譲渡対象以外の事業が残っている場合は、その事業への配置転換が現実的な選択肢です。職種や勤務地が大きく変わるときは、従業員との合意形成が必要になりますが、整理解雇の前段階として検討すべき措置です。
一方、事業の全部を譲渡して会社を清算する予定の場合は深刻です。配置転換先がなくなるため、退職勧奨や整理解雇を検討せざるを得ません。この場合でも、転籍条件の再交渉(労働条件の改善提示)を先に行い、退職金の上乗せなど丁寧な対応を取ることで、訴訟リスクを軽減できます。
転籍拒否が発生した場合の想定シナリオは、M&Aの基本合意段階で売り手・買い手の間で協議しておくのが望ましいとされています。最終契約書に「転籍同意率が○%に満たない場合の取り扱い」を定めることで、クロージング時の混乱を回避できます。
労務デューデリジェンスで確認すべき事項
M&A実行前の労務デューデリジェンス(DD)は、買い手が潜在的な人事リスクを洗い出すための重要なプロセスです。
未払残業代は中小企業M&Aで最も頻繁に指摘される項目です。消滅時効は3年(2020年4月以降に支払日が到来したもの)であるため、過去3年分のタイムカードと給与計算の照合が欠かせません。固定残業代制度を採用している会社では、固定部分と超過分の明確な区分が適法に行われているかの確認も必要です。
社会保険・労働保険の加入漏れも要注意です。適用拡大によりパート・アルバイトの加入義務が広がっており、未加入者がいれば過去2年分の保険料の遡及徴収が生じます(厚生年金保険法第92条、健康保険法第193条)。
就業規則と実態の乖離にも目を光らせます。規則上の始業時刻が9時でも実際は8時30分から業務を開始している、といった運用上のズレは、労使慣行として認められることがあり、統合後の制度設計に影響します。
キーパーソンの離職を防ぐ――リテンションボーナスの設計
法的な雇用承継を整えても、それだけでは人材流出を防げません。M&Aの情報が広まった時点で、社外から引き合いのある優秀な人材ほど転職を検討し始めます。
リテンションボーナスの仕組みと相場
リテンションボーナスは、「一定期間の在籍」を条件に支給する特別報酬です。中小企業M&Aでの相場は対象者の年収の20〜50%程度で、在籍条件は1〜2年が一般的です。
支給方法には一括払いと分割払いがありますが、実務上は分割払い(例: クロージング後6ヶ月で50%、1年後に残り50%)の方が離職抑制効果が高いとされています。「次の支給日まで頑張ろう」という心理的なアンカーが機能するためです。
対象者の選定では、営業売上の上位30%を担う営業担当者、技術やノウハウが属人化している主任・係長クラス、取引先との関係維持に不可欠な担当者の3カテゴリを優先するのがセオリーです。
キーマン条項(ロックアップ)との組み合わせ
キーマン条項は、売り手の経営者や役員に対して一定期間の在籍と引継ぎを義務づける契約上の仕組みです。違反した場合のペナルティ(違約金の支払いや譲渡対価の減額)が伴うため、拘束力はリテンションボーナスより強力です。
経営者・上位役員にはキーマン条項とリテンションボーナスの両方を適用し、中堅管理職にはリテンションボーナスのみで対応するのが中小企業M&Aの実務上の標準的な使い分けです。
従業員への説明と同意取得の進め方
事業譲渡では従業員の個別同意が必要となるため、説明のタイミングと伝え方がM&Aの成否を分けます。
説明のタイミング
情報開示の時期は慎重に判断する必要があります。基本合意段階では限られた関係者(役員・管理職の一部)のみに開示し、全従業員への説明はクロージング直前または直後が一般的です。
ただし、事業譲渡で転籍の個別同意を得る必要がある場合は、クロージングの1〜2ヶ月前には対象従業員への説明を開始しなければなりません。同意取得に必要な期間を逆算してスケジュールを組むことが大切です。
説明すべき5つの内容
従業員への説明では、次の5点を漏れなく伝えます。
- M&Aの目的と背景(事業の成長に向けた前向きな判断であること)
- 雇用の継続(解雇しないことの明言)
- 労働条件の維持(給与・勤務条件に変更がないことの確約、変更がある場合はその内容)
- 今後のスケジュール(転籍手続き、引継ぎ、制度統合のスケジュール)
- 質問・相談の窓口(総務部門・外部相談先の連絡先)
中小企業では前経営者への属人的な信頼で組織が成り立っていることが多く、前経営者自身が「皆さんの処遇は守られる」と直接伝える場を設けることが、従業員の安心感を大きく左右します。
労働条件の統合(PMI)で押さえるポイント
M&A成立後の人事制度統合は、PMI(Post Merger Integration)の中でも時間と労力を要するプロセスです。
賃金制度の統合では、買い手企業と被買収企業の給与テーブルや手当体系が異なる場合、いずれかに合わせるか新制度を設計するかの判断が必要です。被買収企業の賃金を引き下げる場合は不利益変更に該当し、労働契約法第8条から第10条の規定に基づく対応が求められます。
統合初期は被買収企業の労働条件をそのまま維持し、1〜2年をかけて段階的に統一するのが、中小企業M&Aの現実的なアプローチです。経過措置として「調整手当」を支給し、制度統合による減額分を一定期間補填する方法もよく用いられています。
退職金制度の統合も見落とせません。株式譲渡では既存の退職金債務がそのまま引き継がれます。事業譲渡では退職金債務の承継範囲を契約で定める必要があり、売り手企業で過去分を精算するか、買い手企業が引き受ける代わりに売買対価を調整するかのいずれかが一般的です。
まとめ
要点
- 事業譲渡では雇用契約が自動承継されず、民法第625条第1項に基づく従業員の個別同意が必要。株式譲渡なら雇用契約はそのまま維持される
- 事業譲渡を理由とする解雇は原則認められず、転籍拒否者への対応は配置転換・退職勧奨を先に検討する。整理解雇は4要件を満たす場合に限られる
- キーパーソンの離職を防ぐには、リテンションボーナスの分割払い設計とクロージング後2週間以内の個別面談が有効
M&Aの手続き全体の流れは中小企業のM&A手続きガイドで解説しています。事業譲渡と株式譲渡の違いをスキーム選択の観点から比較したい場合は、事業譲渡と株式譲渡の違いもあわせてご覧ください。
経営不振からの立て直しにM&Aを検討している方は、事業再生の税務ガイドで債務免除益や欠損金の活用方法を確認できます。
事業譲渡の従業員対応や労務統合に関するご相談は、無料相談からご連絡ください。
よくある質問
- Q. 事業譲渡で従業員は解雇されますか?
- A. 事業譲渡を理由とする解雇は原則として認められません。ただし、事業譲渡に伴い売り手企業で譲渡対象事業が廃止される場合、配置転換の余地がなければ整理解雇の4要件に基づく人員整理が検討されることがあります。いずれの場合も労働契約法第16条により、客観的に合理的な理由と社会的相当性が必要です。
- Q. M&Aで社員はどうなる?
- A. M&Aのスキームによって異なります。株式譲渡では株主が変わるだけで会社の法人格は同一のため、雇用契約はそのまま継続します。事業譲渡では雇用契約が自動承継されないため、従業員一人ひとりの個別同意を得て買い手企業と新たに契約を結ぶ必要があります(民法第625条第1項)。会社分割では労働契約承継法に基づき、原則として分割先に承継されます。
- Q. 事業譲渡で従業員が転籍を拒否できますか?
- A. 拒否できます。事業譲渡では従業員の個別同意が必要なため、転籍に同意しなければ売り手企業に残ることになります(民法第625条第1項)。ただし、譲渡対象事業の廃止により従来の業務がなくなった場合、配置転換や退職勧奨の対象になる可能性があります。
- Q. リテンションボーナスの相場はいくらですか?
- A. 中小企業M&Aでは対象者の年収の20〜50%が目安です。クロージング後6ヶ月で半額、1年後に残額を支給する分割払いが離職抑制効果が高いとされています。対象者は営業売上上位30%を占める担当者、技術知識が属人化した中堅社員、顧客との関係を維持している担当者を優先的に選定します。
- Q. M&A後に労働条件を変更できますか?
- A. 労働契約法第9条により、原則として従業員の同意なく労働条件を不利益に変更することはできません。就業規則の変更による不利益変更は、変更の必要性・内容の相当性・代償措置の有無などを総合的に判断し、合理性がある場合に限り認められます(労働契約法第10条)。
- Q. 事業譲渡の従業員説明はいつ行うべきですか?
- A. 一般的にはクロージング(事業の引渡し)直前または直後に全従業員へ説明します。基本合意段階での情報漏洩は退職の連鎖や取引先の動揺を招くリスクがあるため、開示対象は最小限に留めます。事業譲渡では個別同意が必要なため、クロージングの1〜2ヶ月前から対象従業員への説明・面談を開始するのが現実的です。